改めて読んで見て

最初に読んでから数十年が過ぎている。俺はキリストの「人はパンのみに生きるに非ず」というのは大好きな言葉だけど、勿論、パンは必要だと思う。キリストは労働や働くことを卑しい否定するべきこととしているわけじゃない。男(あるいは一家のメインの稼ぎ手)が、パンを稼ぐことに汗を流さず、「人はパンのみに生きるに非ず」といっているとしても、何だかなぁとしか思えない。杜子春だって、「泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。」と、最後に仙人から住まいと食べる方法ももらっているんだよな。稼ぐこと、パンを得る努力は必要なことだけれども、ただ稼ぐだけじゃあダメだって話だ。
大金持ちになり貧乏になりを繰り返し、金に群がる人の心の移ろいやすさを知り、仙人にもならず、最後の結論は、
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」
その重さはこの年になって実感される。

まあ、物語は変わってしまうんだけどさ、2回目に富豪になった際、同じように贅沢をするんじゃなくて、慈善事業とか、貧民救済とかの事業でもやっていれば、無一文になった時、人々からの扱いも違ったんだじゃないかなぁとか。自分が作った貧民救済施設に、最後自分が入ってたりしてw
手に入れたお金を、使うだけじゃなくて、ビジネス、商売の原資にするとか。おじさんになると、子供の頃に考えなかったいろんなことが思われる。

稼ぐこと、パンを得るために努力することも大事なことではあるけれど、お金は手段であるはずなのに、目的そのものにすり替わってしまうんだよな、けっこう。

キレイゴトだけじゃだめなんだけどさ、キレイゴトが言えるように、生活だけは、さっさと何とかしておきたいもんだw。

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